ジンジャー・ロジャースとは
アメリカの女優。(1911.7.16~1995.4.25 米ミズーリ州生)
本名:ヴァージニア・キャサリン・マクマース。映画と舞台で活躍した。
歌と踊りも並み以上にこなしたが、アカデミー主演女優賞を取った演技派でもある。
自分がどう撮られるかについて、はっきりものが言える女優だったという。
アステアとジンジャー・ロジャース
ジンジャー・ロジャースは、フレッド・アステアの最も有名なダンスパートナーである。
「アステア&ロジャース」と呼ばれ、二人が踊ったRKOの映画シリーズは一世を風靡した。
アステアとジンジャーの初対面は、1930年のNY。アレックス・アーロンズが、ジンジャー出演の舞台に、アステアの助言を求めたためである。アステアは、このときジンジャーに好印象を持ったと言っている。
アステアと踊るジンジャーのダンスは、とてもプロの教育を受けていないダンサーとは思えない。しかし、ジンジャーがソロで踊るのを見ると、どれほど彼女がアステアに引き上げられていたのかが分かる。
アステア&ロジャース映画の全盛期には、
「アステアとジンジャーは、実は仲が悪いんだ」
という噂が盛んに人の口にのぼった。
しかし、アステアとジンジャーは、映画で共演する前に、プライベートで数回デートしている。「一度」ではなく、「二度以上」のデートをしているのである。この時代、アステアは、ジンジャーの家に、彼女と母のレラを何度か訪ねてもいる。
つまり、二人は、元々は「どっちかと言えば、気の合う二人」なのである。
ただし、映画を何本も作るうちに、二人の間に確執が生まれたということは、考えられる。(初回の共演「空中レビュー時代」では、ジンジャーは優しくアドバイスしてくれたとアステアは語っている)
しかし、撮影所で「二人がののしりあった」とか、「冷たく無視しあった」という話は聞かないので、
「適度な距離感を賢く保った二人だった」
というところなのではなかろうか。
ちなみに、ジンジャーとフレッドの初デートは、セントラルパークの中のカジノだそうで、二人はそこで初めてのダンスを踊った。このシチュエーションは、「バンド・ワゴン」の「ダンシング・イン・ザ・ダーク」を思い出させる。
どうでもいい情報
アステアは、ベルギーで通りがかりの少年に「あ、ジンジャーだ」と言われたことがある。(映画の中でもジーン・ケリーに「ジンジャー」と呼びかけられているが、こっちは皮肉で言っている)
アステア&ロジャースの魅力
私は、「アステア&ロジャース」ペアに、ほかのぺアには見い出せない、高度な一体感があったことを、ダンサー・アステア自身が、十分に承知していたはずと思っている。ジンジャーと組んだことは、アステアにとっては「幸福」の一要素だったはずである。(何本もジンジャーとセット売りじゃ嫌だ、と思ったとしても)
アステアは、生前、
「自分と踊った女性パートナーは、全員自分の要求するステップの困難さに泣いたものだ。泣かなかったのは、ジンジャー・ロジャースだけだった」
と語っている。ジンジャーの力を、誰より知っていたのは、アステアだったのではなかろうか。
アステア&ロジャースの魅力は一体何なのか、この答えを出した人を、私は知らない。「答えらしきもの」さえ、見たことが無い。
アステア&エレノアとか、アステア&シド・チャリスならば、分析することは可能だと思うのだが、ジンジャーの場合は、「何かがあった」としか言いようがないのである。
確かなことは、アステア&ロジャースの魅力は、「アステアだけが頑張って作ったものではない」こと。ジンジャーの技術と個性も、確かに二人のダンスを支えたのだ。
このことを実感するには、「RKOのアステア&ロジャース映画数本」→「ジンジャー以外のパートナーと踊ったアステア映画数本」→「ブロードウエイのバークレー夫妻」の順番で、映画を見てみると分かる。
「バークレー夫妻」のアステア&ロジャースの安定感は、おそろしいものがある。ジュディでも、シドでも、エレノアでも、ヴェラ・エレンでも、こうはいかない。本質的に、アステア&ロジャースは、「何かが」一致している。
二人は、特に相性判定して作られたチームではなく、「空中レビュー時代」のプロデューサー、ルウ・ブロックが引き合わせた、ほとんど出会いがしらに出会ったようなパートナーであった。そういう意味では、本物の「奇跡のダンスチーム」だったのだろう。
「バークレー夫妻」を見て私は、二人の相性の良さは、年月に浸食されないのだと知った。
ということは、仮に100年後、200年後に再び会って踊ったとしても、あの魅力は保存されているに違いない。アステア・ロジャースは、永久に不滅なのである。
ジンジャーの家族・親戚
ジンジャーは、幼い頃に両親の離婚を経験している。また、そのために、祖父母に育てられた時期がある。
若い頃のジンジャーには、しっかり者のステージママ、レラ・ロジャースが付いていて、映画会社には、なかなか手ごわい交渉相手だったらしい。
また、ルシル・ボールとは、遠い親戚であり、親しくしていた。ルシルが芸能人として大成したのは、レラの影響があるともいわれている。
「ジンジャー」の由来
芸名である、「ジンジャー」というのは、元々ニックネームだった。
本名の「バージニア」を、幼い従兄が発音できなくて、「ジンジャー」と呼んだために、親戚うちでは「ジンジャー」で通っていたのだそうな。つまり、身内での呼び名を芸名にしてしまったのである。
ジンジャーの趣味
アステアもそうだが、ジンジャーもスポーツ好きで、アウトドアの人である。テニス、射撃、釣りなどが得意だった。
その一方で、絵や彫刻を作ることも趣味としていた。多趣味の人であり、多分、好奇心の強い人だったのではなかろうか。
ジンジャーの私生活
アステアとのRKOでの最後の共演(カッスル夫妻)をした次の年、ジンジャーはオレゴンに牧場を購入し、仕事の無いときは、牧場で暮らした。この家には、アステアも訪ねて行っている。
生涯で、5回結婚しているが、いずれの結婚もごく短い期間である。
ジョージ・ガーシュインいわく、「ジンジャーは、誰にでもちょっと恋をするが、誰にも大恋愛はしない」のだそうである。
晩年は、持病の糖尿病が悪化し、車椅子生活を送っていた。
ジンジャーとアステアは、同じ墓地に葬られている。天国でも、二人は踊ったのかな?
アステアとの共演作品(すべて映画)
- 「空中レビュー時代」Flyng Down to Rio
- 「コンチネンタル」The Gay Divorcee
- 「ロバータ」Roberta
- 「トップ・ハット」Top Hat
- 「艦隊を追って」Follow the Fleet
- 「有頂天時代」Swing Time
- 「踊らん哉」Shall We Dance
- 「気儘時代」Carefree
- 「カッスル夫妻」The Story of vernon and Irene Castle
- 「ブロードウェイのバークレー夫妻」The Barkleys of broadway
以上、10作品。
ジンジャー・ロジャースの代表作(映画)
「恋愛手帖」