アメリカの作曲家(1898.9.26~1937.7.11 米NY生)。
本名ジャコブ・ガーシュイン。ユダヤ系ロシア人。アイラ・ガーシュインの弟。脳腫瘍のため、38歳の若さで亡くなった。
「アメリカ音楽」を作り上げたのは、ジョージ・ガーシュインだといわれている。ポピュラー、クラシックともに得意とした。
父親は、靴のデザイナー。ロシアから、ユダヤ人迫害を避けるために、アメリカに移民してきた。
幼いころから、友達の家などでピアノを弾き、すでに独自のメロディを作ることもしていた。10歳の頃には、音楽家になる気持ちを固めていた。
しかし、音楽がジョージの身近になったのは、意外に遅い。兄アイラのために両親がピアノを貰ってきたのは、ジョージが12歳のとき。ジョージはたちまちピアノが得意になり、音楽にのめりこんでいく。
音楽家になると決意していた割りに、商業高校に入っているのは、ピアニストで食えるわけが無いと考えた両親に、無理に行かされたもの。しかし、学業には関心が無く、やがて高校は中退し、音楽出版社のデモピアニストの職に就く。その後、フリーの作曲家となる。
アステアとは、ジョージがデモピアニストだった時代、1914年にすでに出会っており、初対面から
「僕の曲で、君が踊るミュージカルが実現すればすばらしいね」
と語り合ったと伝えられる。
ジョージは、いわゆる音楽の英才教育を受けていない。有名な学校などにも通っていない。ピアノも、オーケストレーションも、個人レッスンに付いたことはあったが、ほとんど独学である。
「ラプソディ・イン・ブルー」発表後に、正式な勉強もしようと、ヨーロッパに渡り、ストラビンスキーに弟子入りを申し込んだら、
「あなたに教えることは無い」
と断られたという。
兄のアイラは、音楽よりも文学にすぐれ、ジョージの曲に歌詞を書いた。ミュージカルの舞台や、映画のために、ジョージ&アイラで多数の作品を創作している。
アステア出演映画では、「踊らん哉」、「踊る騎士」、「ジーグフェルド・フォーリーズ」、「ブロードウエイのバークレー夫妻」、「パリの恋人」に、ジョージ作曲の作品が使われている。
また、アステアの舞台時代に、レディー・ビーグッド、ファニー・フェイスに曲を書いている。
ジョージはアステアのダンスレッスンに付き合うのが好きで、自らダンスのアイデアを提供してくれることもあった。
代表曲
「ラプソディ・イン・ブルー」Rhapsody In Blue
「パリのアメリカ人」An American In Paris
「スワニー」SWANEE
「アイ・ガット・リズム」I Got Rhythm